とりあえず、

―人形は鏡。悲しい気分で見ていると、悲しく見えるし、見るほうが嬉しい時は、微笑んで見えます。でも、そこで人形と情を通わすことができたと思うと、人形からしっぺ返しをくらってしまう。人形は、人間と情を通わせたいなどとはちっとも思ってないのです。

人形は情を通わせたくない。なぜだろうか?


―人形は見る人の想念を呼び起こし、鳥のようにも魚のようにもなり、翼をもったり、鱗を着たり、また、海の中の妖怪にもなり、何の苦労もなくそれらを演じ分けることができます。

(泉鏡花の作品の引用をもとに)
―うるさい人間ども、情の売り買いに、もうあきが来て、
「蛙に恋でも、仕掛けてみようか、それとも、秋草の露でも噛んで、夢枕に、好いた男を立たせてみるか」と、美女達は、自分が人形であることを、誇らしく、楽しげに、思ってとても活き活きとしてくるでしょう。
人間の交し合う情のかけひきは、実は、恐ろしいものの怪であることを、人形達は一番よく知っています。泣いても、だめ、怒って恨んでも、だめ、悔やんで、憎んでも、だめ、なのです。

―人形のように人間は純粋でないから、多くの不幸の災いから逃げ出すことができないのでしょう。人形は、その上に、何も欲張りをいわないから、とても自由なのです。人形はわがままもいわないから、何時までも美しくいられるのです。

(蜘蛛の網にかかった蝶を見て)
―こんなとき、見ている人間の、情の働きを考えてみると、つい助けたくなるのは、人情といえましょうが、じつは、大変に思い上がった驕りであることに、気がつきました。蜘蛛の巣にかかるために、蝶には翅があり、その悲しさのために美しいのでしょう。考えてみると、草や木、蝶や鳥、魚や獣たちは、その命そのものが自然であるということに、その美しさの秘密があるようです。だとすると、美しさを求めてやまない人間は、実はいちばんこの世でみにくい生き物なのでしょうか。情けとは、即そのまま驕りという絵解きを、私はこれらの鏡に映し出して見たような気持ちです。だとすると、その驕りというものを、なんとかして、本当の情けという字に置き換えたいものです。


 人形は人形でありたいから、情を通わせたくないのだろうか。にんぎょうとは何であるか?という問いは最終的にはにんげんとは何であるか?に行き着く。人形は一切の生と死の束縛から超えた「世界」。世界には三つの事柄が存在する。あらゆる手段と方法、表現が内包された「多様性」。そうでなければすべての事象は頭打ちになり、発展性が途絶えてしまう。着実に実現させた、すべての物事の積み重ねが可能な「安定性」。そして限りある生を誕生させ、存続させる基盤である「悠久性」。無限に等しい時間とエネルギーがなければ、積み重ねられた物事は中断してしまう。可能性を模索する際に生じる限りない失敗ややりなおしを許容できなければならない。人間が不完全な存在であって、人形がそれらを映し出す鏡であるならば、あらゆる人間のどのような情動や心、そのすべてを映し出すことができる人が作り出した「小世界」なのではないだろうか。それゆえに、不完全なものの情などは流してしまう。ただ、不完全な者の達成感や努力の充実感は認めてくれているのではないかと思う。

 ふん、一夜漬けではこんなものか。付け焼刃・・・。

ついでに今回のイベントのメインコンセプトである人形作家「恋月姫
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_koitukihime02.htm

大筋ではジュサブローと同じことを言っている。


また、ついでに書き留めておくと、役者という字は「役」の「者」と書く。自分を捨てることによって、初めて生きてくる言葉。だから、自分に厳しい人のこと。俳優とは「(俳)自分」が優っていると書く。他人よりすぐれているわけだから、自分を甘えさせる人。知識も教養も、つまりっぱなしの人間はいない。舞台から降りると自分に戻るのではなくて、自分が舞台にたっているのだから、その人の日常が筒抜けになっていて、間違った意識が、幕を引く意味もなくしてしまっている。

もうかなり遅いけど、寝る。