TATOO

 たまたま見ていたTATOOの個人サイト。

以下、引用。

確かにTATTOOを入れていればカッコヨク見えるかもしれません。だけど、それと同時に偏見の目で見られるのも確かです。そう云った偏見の目を持ったヒトタチにも、「自分はこう云うポリシーでTATTOOを入れているんだ」と、きちんと説明(説得?)できるくらいの心構えは欲しいものです。


 たしかに偏見はありますね。やっぱり威圧的なイメージがある。そこでポリシーを力説された日にゃ、恐れおののいてシマイマス。ただ、カッコいいとかのノリで入れるものじゃない。そのあたりの覚悟は必要でしょうね。聞いてみたい。


以下、引用。
生きてる感じがしなかったアタシの「生きてる。他の誰でもないアタシはここにいる」と云う、一種の自己暗示のようなものだったのかもしれません

 これは分かるような気がします。アイデンティティの証明みたいな感じで。肉体的な痛み。視覚的な意匠。そして(肉体が存続する限りの)永久的な印。わたしという個性の集約みたいな感じでしょうか。コレに関しては何かの本で読んだ気がします。


そしてまた引用。
そんなのがちょっと自慢だったりするけど、んなもん自己満足なんだって云うのも分かってるけど、それらはアタシにとってとっても大事な「シルシ」です。

これがフェチと異なる。フェチは自分の身体をどんな記号(性記号、この場合、女性の衣服)でも書き込めるよう、白地図のままで置いておきたがる。異性装をした場合、tatooがあると、そこにイメージが集中してしまうのだ。どんな服を着ようが、「自分」に引き戻されてしまう。そこに何かを見出すことはできない。

私もそう。どんな恰好でもしたい。コスプレもギャル系もビジュアル系も着ぐるみも、全部やりたいし、どんなキャラにでもなりたい。そのためにはTATOOが身体にあってはならないのだ。