価値観

 扱う商品の中に「破れ壺」というものがある。それは古瀬戸の壺だったり古常滑の壺だったりするのだが、ブチ割れているもの(業界的には修復されて継がれているものや発掘された陶片を繋ぎ合わせたものも含む)を指す。元来は千利休信楽(伊賀だったかな?)の水指で、焼き損ないのブチ割れた壺を鑑賞に堪えうるものとしたことに始まる。いわゆる寂び(枯れた味わいがり、無常観的なはかなさ)があるということだろうか。また、禅語にも「破沙盆」という言葉がある。長い使用の末に壊れてしまった盆はものの役には立たないが、それを角が取れた人生の円熟味に喩えている(のだったと思う)。

 もともとは出来損ないとして世に出ることは無かったはずの壺である。本来ならばとうの昔に窯場の土となっていた壺がこうしてここに在るということはなかなか面白いことだ。花生けとして遣えば非常に枯淡な趣が出るので、生け花をする人に需要がある。多少だが。


 で、この破れ壺だが、店に来てまずコレに目が行く人や興味津々な人はまず骨董品を「買わない」。そのことに最近気がついた。

 異口同音に、これの価値や値段に疑問を抱き、好奇心で目を輝かせ、「骨董品だから」と自分で言い聞かせるように納得して去っていく。
 言うなれば「破損品」。それにバカ高い値段を付けて販売しているという常識から外れた行為。とても奇異に見えるのだろう。そして「骨董ならでは」ということで片付けられている。まるで見世物だ。その一方で、骨董・古美術に変な思い込みのようなものを持っている人もいる。
「古さを付けるためにわざとキズを付けて売るんだろう?」
これは何度か同様のことを言われている。古いからキズがあって当たり前という古美術業者の常套句?を逆手にとったような言葉だ。すごくしたり顔で語る客もいる。
「おまえはアホか」と、心の中で言う。
どこの世界に完品にキズをつけるバカがいるかっ!
(悪徳業者が贋物をそうして売る所為もあるが)

ならば、お望みのキズだらけの「破れ壺」はいかがっスかぁ?


 興味があるのは古美術ではなく、「ものの役に立たない壊れたもの」に値段を付けて売るという他には無いコトなんだろう。残念ながら破れ壺を鑑賞するためには感性が必要だ。結局はただの土の塊であり、なおかつ壺としての役に立たないものである。どんな本にもネットにも正しい鑑賞の仕方なんぞ書いてやしない。ましてや資産的価値なんて無い、一方通行の不換価値かもしれない。極めて曖昧模糊な代物である。万人がその定義をしてくれないんだから。そこに何を読むか、見立てるか、ということが重要なのだ。想像するゆとりはあまりあるほどある。それをいかに愉しむかはその人次第ということである。